佐久間庸軒(さくまようけん)

庸軒の誕生

幕末から明治にかけて最上流和算家として活躍した佐久間庸軒は、1819(文政2)年、石森村(現・田村市船引町石森)に生まれました。本名は◆(つづき)、幼名は典九郎といい、兄の九郎兵衛が若くして亡くなったため、代わって家督を相続するにあたって二郎太郎と改名しました。ちなみに「庸軒」の名は安積艮斎(あさかごんさい)先生によって贈られた号です。
◆は糸へんに賛で「夫」ではなく「先」(糸へんに先2つと貝)

幼少から青年期

佐久間庸軒は、幼少より非凡な才能を有し、14歳までは父の指導で学問を学び、母は庸軒が学問を好むのを見て良書を選び与え、自学独習の精神の養成に努めました。その養育ぶりは「彼をしてやがて父に祖先を優る所の数学者たらしめたのは全く母の力なり」といわしめるほどだったといいます。
1833(天保4)年、15歳の時三春藩の儒学者奥村俊蔵に入門し、詩経や漢籍を学びました。1836(天保7)年に二本松藩の数学者・最上流の和算家であった渡辺一(号は東嶽)の門に入りました。その勉強ぶりは「先生(庸軒のこと)、幼より学を好むこと凡庸ならず、常に書巻を座右に置き寸暇ある毎に巻を開き、また歩行の時においても書巻を離さず、その甚だしきに至っては、厠(便所)に入るもなお書を閲すために、厠内に書架を設け置きしという」と『庸軒略伝』に書かれています。(一部現代語に書き換え)
石森から二本松の間、20数キロの道程を苦とせず修学したことからも、いかに勤勉家であり、努力家であったかが分かります。
そして、その成果を神に感謝するとともに、より一層の発展を祈願するために、1837(天保8)年の春、小野町の東堂山観音堂に算額を奉納しました。また1840(天保11)年に西新殿村の佐久間庄左衛門に入門し、大円鏡智流剣術を学び、その奥義を授けられ、さらに1846(弘化3)年には山形の高橋吉右衛門に師事し、測量学を学び、その奥義を伝授されました。

諸国歴訪で和算を極める

庸軒は諸国に旅することによって自派以外にも師を求め和算を極めようと、1840(天保11)年に仙台の苅田山と金華山を、1842(天保13)年に伊勢、熊野、西国三十三所、四国の金毘羅山、信州の善光寺を旅しました。1858(安政5)年には九州の天草、1862(文久2)年に出羽越後へと旅し、諸国に歴訪した人数は61名を数えました。その道中においては、各地の寺社仏閣に参詣し、その寺社の縁起、建築の規模、絵馬や額、境内に奉納された句碑や歌碑などをメモ書きした旅日記を記しています。

『当用算法』の出版で名を馳せる

1854(嘉永7)年、庸軒が35歳の時『当用算法』を著し、その名を領内外に広く知らしめることになりました。また庸軒の著書で最も優れているといわれる『算法起源集(全4巻)』は、1875(明治8)年に出版されました。
1861(文久元)年に三春藩士に召し抱えられ、明治維新後は新政府の地図取調方や、磐前県等にも奉職していました。1876(明治9)年に官を辞し、石森村に帰村して庸軒塾を開設しました。その門人数は、近隣及び県内外から2000有余人を数えました。

庸軒の晩年

庸軒の晩年は、渡辺一から和算の他に連歌についても学び、白河出身の絵師蒲生羅漢、二本松藩の絵師大原文林、三春出身の絵師中村寛亭、本宮生まれの幕末の俳人塩田冥々など、その当時の一流の文人たちとも大いに交わり、庸軒が遺した絵、俳句、書などからは、庸軒の人となりを偲ぶことができます。
1896(明治29)年9月、庸軒は病の床に臥す身となり、9月7日に自分の運命を悟り「秋寒し 七十八の 西の旅」と辞世の句を書きあげ、同月27日に78歳の生涯を全うしました。

関連する文化財

現代においても、庸軒の遺した絵、俳句、書などの資料は価値が非常に高いため、福島県の重要文化財に指定されています。また、庸軒が晩年開設した庸軒塾として使用していたといわれている書斎は、田村市の有形文化財に指定されています。

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