小野城の歴史
右支夏井川と専光寺、町民体育館に挟まれた場所に、天正年間(1570年代)の戦国時代の中で、その存在を大きく誇示した小野城がありました。
田村一族が、現郡山市田村町から三春町へ拠点を移したのは、1504(永正元)年、盛顕の子、義顕の時代と言われています。その頃、いわき地方を支配していた岩城常隆も勢力を伸ばし、小野左右衛門の築いた小野城を攻めて支配下に置いたとされています。岩城常隆は田村氏との友好のために娘を義顕と結婚させました。
そして義顕は、次子の顕盛(梅雪齋)を小野城の小野左右衛門の後継ぎとして入城させました。その後、戦国時代の混乱の中で、梅雪齋とその子右馬頭らは、南の要害である小野城を守り、この地域を治めました。
現在の小野町の街並みや寺社仏閣は、田村梅雪齋・右馬頭の父子、またはその家臣団や末裔によって築かれるなど、その恩恵は計り知れません。
田村家は、義顕、隆顕、清顕と代を重ねていきましたが、1586(天正14)年に清顕が死去すると、嫡子のいない田村一族は、後継ぎをめぐって分裂し、1589(天正17)年その混乱に乗じた岩城勢の進攻によって、小野城は落城したといわれています。
その後、秀吉による奥州仕置で田村家は廃絶し、小野城は廃城となりました。そして落城の3年後の1592(文禄元)年1月5日に田村右馬頭、翌6日に田村梅雪齋がそれぞれ自刃したといわれています。梅雪齋らは普賢寺に埋葬され、また後年、遺徳を偲んだ家臣団らによって、専光寺にもお墓が建立されました。
小野城のいま
小野城は周辺より50メートルほどの高台に建てられた平山城でした。城を含めて多くの遺構が姿を消しましたが、曲輪、堀切、土塁、空堀などがかろうじて残っています。本丸の置かれた場所には石柱も建てられていますが、風情はあまり感じることができません。最も高い場所は、今現在空地になっていて、南側には石碑と案内看板が立っているほか、小野町の街並みを一望することができます。
小野城跡は、南を向いていて、日の出鑑賞に適しているため、初日の出スポットとして地域の方に親しまれています。
アクセスは、仙台屋食堂の脇の細い路地を入り突き当りを右折すると、左手にちょっとした空地があり、その奥に小野城に通じる階段の入口があります。その空地に3台程度駐車することも可能です。


アクセスと周辺
●自動車でのアクセス
※出発地は、何度でも自由に再指定することができます。
※ルートおよび所要時間は参考情報としてご利用ください。これらの情報は、混雑具合や工事、天候等の影響により異なる場合があります。移動時は実際の標識や案内板等に従ってください。
※有料道経由が必ずしも便利とは限りませんのでご注意ください。
新白河駅から![]() |
有料道経由(ETC搭載車) | 48分(52.3km) |
有料道経由(ETC非搭載車) | 49分(56.8km) | |
一般道経由 | 57分(53.7km) | |
郡山駅から![]() |
有料道経由 | 38分(38.9km) |
一般道経由 | 44分(30.4km) | |
福島駅から![]() |
有料道経由 | 1時間1分(78.4km) |
一般道経由 | 1時間27分(65.5km) | |
原ノ町駅から![]() |
有料道経由 | 1時間28分(80.5km) |
一般道経由 | 1時間32分(78.2km) | |
いわき駅から![]() |
有料道経由 | 44分(47.7km) |
一般道経由 | 55分(45.5km) | |
福島空港から![]() |
あぶくま高原道路経由 | 26分(27.1km) |
一般道経由 | 38分(30.0km) |
●鉄道でのアクセス
最寄り駅:JR磐越東線 小野新町駅(1.6km)
乗換案内 | ![]() |
最寄り駅から路線バス | 小野新町駅前から「小野本町行き」または「石川駅前行き」に乗車、小野本町下車。(郡山駅前行きに乗車し小野荒町下車でも可) |
最寄り駅からタクシー | 羽場タクシー 0247-72-2171 小野町観光タクシー(株) 0247-72-2340 |
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